コラム
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「児童養護施設の子どもへの精神分析的心理療法」書籍案内
本書は、児童養護施設で苦闘するセラピストに役に立つことを目指して執筆された。子どもの精神分析的心理療法は、英国においては、家族背景にさまざまな問題を抱えている発達障害の子ども、そして虐待やネグレクトを受けた子どもへの心理的援助の方法として、確固とした位置づけを持っている。一方、わが国でも、児童養護施設で多くのセラピストがそのような子どもの心理的援助の仕事に携わっているが、本書で明らかにしていったように、それはセラピストにとって多大な負担を伴う仕事である。
精神分析的心理療法の本質は、間主観的/相互主体的つながりの中で自己を生かすことのできる子どもの潜在力を、活性化/再活性化することである。それは、子どもの内省能力やコミュニケーション能力の潜在的可能性を伸ばしていくことでもある。そして、それはセラピストが内省活動をし、子どもとコミュニケーションを図っていくことで促進される。こうした関係は、生活の中で、養育者や学校教師、友だちとの間で、子どもが自然に作っていくわけであるが、児童養護施設に入所している子どもの多くは、虐待などの影響でそうした関係を持つことが難しくなっている。精神分析的心理療法は、そのため、そうした互恵的関係の自然な発達を阻む難しい部分、特に子どもが虐待などで抱えている痛みや希望のなさなどをセラピストが受け止め、考えていく必要がある。
一人の子どもにとって耐えがたい痛みや不安を、セラピストであるからといって受け止めたり考えたりが容易にできるかというとそうではなく、むしろ同じく耐えがたく感じることがほとんどである。こうした状況で、このような仕事をするセラピストは、理論や技法などの知識の助けを借りることが役立つ。本書の目論見の一つは、そのような苦境にある施設のセラピストにとってヒントや手がかりになる知見を、盛り込むことであった。
しかしながら、実践においてそうした知的な理解や構えだけでなんとかなるかというと、それは難しい。スーパーヴィジョンを受けることは多くの場合必須であるし、セラピスト自身がセラピーを受けることも必要であろう。また、事例検討会など同業者と互いに仕事の中身を共有し合うことは、とても大切であろう。
セラピスト自身が抱え込むのではなく、自分の経験を他のセラピストと共有していくことで、子どもが抱えている痛みや「毒」が、いわば解毒されていくかもしれないのである。
虐待やネグレクトなどの背景を持って施設に入所してくる子どもたちは、自分たちの経験が特殊で、他の「普通」の人たちと分かち合うことの不可能な、価値がなかったり恥ずかしかったりする特殊な経験であると考えがちである。このような子どもと心理療法実践をするセラピストも、その経験が価値がないと感じていたり、うまくいっていないことを恥ずかしいと思っていたりしがちなように思われる。そして、実際、このような子どもの実父母たちについて考えると、彼らもまた「普通」の社会から疎外され、うまくつながれない人たちばかりなのに気づかされる。
施設で心理療法実践に携わるセラピストは、自分たちの仕事を特殊だと思いがちのように見えるし、実際、セラピストの学会などのコミュニティの主流とつながっているかというと、そうでもないように見える。ところが、本書で示したように、施設の子どもの心理療法は、現代社会で大人も含めて多くの人を悩ませている問題と本質的には異なるところがあり、場合によっては、それらがより明瞭な形で示されているのである。つまり、施設の子どもたちが心理療法を通じて示している問題は、私たち一人ひとりにとって生きていくことと深く関わる問題を提起しているのであり、その意味で、本書のマリ、ケイ、コウタ、シュン、ユカ、サトシ、ヒロム、マホ、リサは、私たちの一部であるかもしれないのである。
本書は、認定NPO法人子どもの心理療法支援会(サポチル)の顧問と専門会員によって企画され、執筆された。サポチルは、児童養護施設の子どもなど、児童福祉領域の子ども、そして発達障害を持つ子どもへの心理療法実践の支援活動をしている。児童福祉施設の職員の研修活動も行っている。そして、関東と関西で、子どもの精神分析的心理療法の研修と訓練を行っている。
(「おわりに」より抜粋)